2014年10月01日

幼き頃(その一)

私は昭和四年十月二日、朝早く元気に父,喜平寿、母シンの長女
として生まれた。母は地元特産品の麻引きがヤット終わって一段落
した時の出産だったようだ。麻引きで骨折れて私の体重は
(健康であれば計らなかった)小さかったようだったが、でも
オッパイを良く飲んだので心配しなかった。飲む事は育つ事でもある。
上に長男の啓一(四歳で死亡)次男弘二がいた。年寄りのおじいさん
おばあさんもいた。
生まれて一週間後には,お七夜(誕生祝い)をやり、当日は親戚一同
を呼んで、お稲荷さんにお参りし、トイレにセッチン参りと井戸神様
にお参りをして、精一杯のご馳走を振舞った。親戚からは女の子だから
と、赤い柄の反物や子供の身に付く品々を持って呼ばれてきた。
父の実家からは、沢山の衣装を背負って持ってきたようだった。
そのときの戴き物で子供の頃の着る物は間に合ったようだ。

昔は着物(和服)だったから、みんな母が手で縫って着せてくれた。
学校へ行く様になっても着物を着て三尺という帯を絞め、
後ろでチョウチョに結んだ。寒くなると羽織か半纏を着た。靴は
ゴム製の短靴、これは長持ちして、小さくなって穿けなくなるまで
穿いた.髪はおかっぱ頭。それが私の欠点。髪が硬くて前髪がヒタイに
なじまず、前髪が突き出てしまう。学芸会で主役をやらされても
突き出た髪で、可愛さ半減。心配した母は鉄瓶のお湯で、蒸しタオル
をつくり、処理してくれたけど、ダメ。しょうのない髪の毛です。
三年位までは着物でランドセルを背負った。四年ごろからスカート
をはいてセーターを着た。その頃が時代の変遷だった様に思える。

私は何時も村の体育祭に行く時は良い服を着せられズック靴を
穿かされた。皆よりいい服なのに余り嬉しくもなかった。でも
いじけていなかった。とても活発ではきはきしていた子供だった。

国語の時間はいつも一番先に指されて読まされた。それが毎日
当たり前のようだった。男の子二十三人、女の子二十七人、計
五十人クラス。女の子の内、二番に背が高かった。
駆け足が早くて五〜六年になると各学校代表でよその学校の
運動会に招かれてかけっこをした。石川小、茂呂小,深津小、
池の森小の各学校から、二名づつ代表が出て競走した。

どこで駆けても二等以下はとらなかった。当時一等の賞品は
鉛筆六本、又はノートだった。
この学校の校庭は回りにくい、この学校は直線が長いから、ここで
頑張らねば。と子供心にもゆとりがあった。大勢の人に歓声を
貰って走り出す時の緊張感は,快感、と満足感が漲っていた。
その瞬間を今でも忘れず、しっかり思いだすことが出来る。
しかし、遠い道のりを徒歩で帰ってくるのは、かなり
きつかったのも、忘れられない。幼き日の思い出です。

CIMG0491.JPG
その頃も野山にはこんな花が咲いていたのでしょうか。

posted by コトおばちゃん at 21:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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