2014年10月03日

幼き頃(其の三)

  茶色の毛虫
「竹やぶに機械体操があるからそこであそんべ」とモトちゃ
んに連れられて竹やぶに行った。当時、機械体操といっても
竹やぶに生えている竹二本に、細い竹を横に適当な高さに
縛りつけ、飛び乗ったり、ぶら下がったり一回転したり。
小さいから飛び上がれず、モトちゃんに両足を持って持ち
上げてもらい、一回転する。交互にやって遊んだ。
竹やぶは夏、涼しくてとてもいい遊び場だった。

ある年のお天王さまの日、(村祭り七月十四日)例の様に
楽しく遊んでいた時。「コトちゃん毛虫っ」と大声で言った
びっくりして振り返って見ると、綺麗なユカタに蝶ちょに
しめた赤い三尺(帯)に茶色の大きな毛虫が、ぴったりくっつ
いていた。「ヤダぁー」と大声を上げて夢中で、手で掻き落と
そうとした。が、中々毛虫は落ちない。その時、誰もとって
くれようとしなかった。「キャアー」大声あげて掻き落とした。
その時の毛虫は、太くて長い毛がはえていて、十センチも
あったかのように見えた。
もう遊ぶどころではない、ドキドキが止まらず、泣きながら
家へ帰ってしまった。そしてこのことを母に泣きじゃくり
ながら話した。そして母のヒザにのって、おっかなかったドキ
ドキを沈めようと乗ったきり。母は「あれえ。熱があんじゃね
えか」と額に手をあてた。隠居の前の細い道の両側は小麦畑で
私の頭が見え隠れする程伸びていたし三角山も通らなければ
帰れなかったから、かなり心細くて、泣きながら帰ったので
あろう。それ以来、虫は大嫌いで、年老いても
苦手ナンバーワンは毛虫です。「小さくてもキライ」

CIMG3135.JPG
こんなに綺麗に咲くのに大きい虫が付きました。

posted by コトおばちゃん at 16:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月02日

幼き頃(其の二)

今日、十月二日はひ孫のエミリと私の八十五歳の誕生日。
エミリは元気にヨチヨチ歩き始めました。私には早朝から宅配が。
一本のバラが素敵に包装され、「誕生日おめでとうございます」
とありました。営業者とは言え、毎年変わらぬお心遣いに
感謝感謝、心からお礼申し上げます.ありがとうございました。
さて
活発な女の子、私はよく、「隠居」のモトちゃんと遊んだ。家
と家が離れていたけどおじやん(おじいさん)が毎朝,日参
のように行っていたので、小さい頃はモトちゃんとばかり遊んだ。
隠居へ行くとお姉さん達が何人もいたから、遊んでもくれたし、
珍しい事も覚えられた。
茄子の塩漬けを出してきて、ヘタを取り、中のわたは全部食べて
しまい茄子の皮が、袋になり、そこへ水を入れてコップ代わり。
その水がおいしかった事、何度もなんども飲んで、味が
なくなる頃食べる。家では漬け物など食べなかった私だけど、
何もないし、皆が食べているから食べられた。

サツマ芋は何時も大きなザルに、山のように煮てあった。
もとちゃんは、二本持ってきて「コトちゃんホラ」とだして
くれる。サツマの虫食ったところをつまんで捨て、指についた
サツマを着物にこすり付けた。おかげで着物は汚れ、カベカベ
になったが一週間位着たろうか。モトちゃんも兄弟が大勢
いたから、もっとカベカベだった。モトちゃんが家に遊びに
来てもまったく同じ。サツマは好きだけどジャガイモは嫌い。
春は竹の子が出る。竹の子の皮を剥いて、その皮に梅干を
包んで,端から出るショッパイ汁をなめた。
それもモトちゃんが教えてくれたものだった。

モトちゃんは裏にある味噌倉を(みそびや)といって何時も
自慢した。味噌倉は大谷石で出来ていて、その中は大小様々な
樽や桶が並んでいた。味噌や沢庵漬け、白菜、茄子キュウリ
ラッキョウなど、倉の中は漬け物の異様な匂いがしていた。
樽の上には、大きい石が何個も乗っていて子供では取れない。
石の間から手を突っ込んでなんとか引っ張り出して、
洗ってくれた。私はそんな事をして遊ぶのがたまらなく
嬉しかった。「モトちゃんありがとう、忘れないよ」
CIMG0804.JPG忘れないよ」
posted by コトおばちゃん at 15:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月01日

幼き頃(その一)

私は昭和四年十月二日、朝早く元気に父,喜平寿、母シンの長女
として生まれた。母は地元特産品の麻引きがヤット終わって一段落
した時の出産だったようだ。麻引きで骨折れて私の体重は
(健康であれば計らなかった)小さかったようだったが、でも
オッパイを良く飲んだので心配しなかった。飲む事は育つ事でもある。
上に長男の啓一(四歳で死亡)次男弘二がいた。年寄りのおじいさん
おばあさんもいた。
生まれて一週間後には,お七夜(誕生祝い)をやり、当日は親戚一同
を呼んで、お稲荷さんにお参りし、トイレにセッチン参りと井戸神様
にお参りをして、精一杯のご馳走を振舞った。親戚からは女の子だから
と、赤い柄の反物や子供の身に付く品々を持って呼ばれてきた。
父の実家からは、沢山の衣装を背負って持ってきたようだった。
そのときの戴き物で子供の頃の着る物は間に合ったようだ。

昔は着物(和服)だったから、みんな母が手で縫って着せてくれた。
学校へ行く様になっても着物を着て三尺という帯を絞め、
後ろでチョウチョに結んだ。寒くなると羽織か半纏を着た。靴は
ゴム製の短靴、これは長持ちして、小さくなって穿けなくなるまで
穿いた.髪はおかっぱ頭。それが私の欠点。髪が硬くて前髪がヒタイに
なじまず、前髪が突き出てしまう。学芸会で主役をやらされても
突き出た髪で、可愛さ半減。心配した母は鉄瓶のお湯で、蒸しタオル
をつくり、処理してくれたけど、ダメ。しょうのない髪の毛です。
三年位までは着物でランドセルを背負った。四年ごろからスカート
をはいてセーターを着た。その頃が時代の変遷だった様に思える。

私は何時も村の体育祭に行く時は良い服を着せられズック靴を
穿かされた。皆よりいい服なのに余り嬉しくもなかった。でも
いじけていなかった。とても活発ではきはきしていた子供だった。

国語の時間はいつも一番先に指されて読まされた。それが毎日
当たり前のようだった。男の子二十三人、女の子二十七人、計
五十人クラス。女の子の内、二番に背が高かった。
駆け足が早くて五〜六年になると各学校代表でよその学校の
運動会に招かれてかけっこをした。石川小、茂呂小,深津小、
池の森小の各学校から、二名づつ代表が出て競走した。

どこで駆けても二等以下はとらなかった。当時一等の賞品は
鉛筆六本、又はノートだった。
この学校の校庭は回りにくい、この学校は直線が長いから、ここで
頑張らねば。と子供心にもゆとりがあった。大勢の人に歓声を
貰って走り出す時の緊張感は,快感、と満足感が漲っていた。
その瞬間を今でも忘れず、しっかり思いだすことが出来る。
しかし、遠い道のりを徒歩で帰ってくるのは、かなり
きつかったのも、忘れられない。幼き日の思い出です。

CIMG0491.JPG
その頃も野山にはこんな花が咲いていたのでしょうか。

posted by コトおばちゃん at 21:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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